最近、ディスコーディアニズムを批判する文章を読んだ。
批判すること自体はもちろん自由だ。ディスコーディアニズムは批判してはいけない神聖不可侵の思想ではないし、そもそもそんな扱いをしたらディスコーディアン自身が困る。
ただし、思想を批判するのであれば、最低限、その思想が何を言っているのかは確認したほうがいい。
今回の批判には、かなり基本的なところで『Principia Discordia』に書かれている内容との食い違いがある。
まず「Hail Eris!」について、「Hail」という言葉がナチスの敬礼を想起させるため、権威主義的・全体主義的であるという趣旨の批判があった。
これは英語の hail という単語をナチスに結びつけすぎている。
英語の hail は、ナチス専用の言葉ではない。
“Hail Caesar”もあれば、“Hail Mary”もある。古くから挨拶、歓呼、称賛などに使われてきた普通の英単語である。
まして『Principia Discordia』の初期版そのものに、すでに “HAIL ERIS” と記されている。
したがって、「Hail Eris!」という表現をナチスの模倣として説明するには、それを裏付ける別の歴史的根拠が必要になる。
単に「自分にはナチスを連想させる」というだけなら、それはその人の連想である。
そして、この「自分の連想」と「対象そのもの」を区別することは、実はディスコーディアニズムを理解するうえで非常に重要である。
もっと興味深い批判があった。
ディスコーディアニズムにおけるChaosは、情報理論におけるエントロピー概念の誤用である、というのである。
しかし『Principia Discordia』を読むと、そもそもそんな議論はしていない。
『Principia Discordia』では、
Aneristic Principle = APPARENT ORDER
Eristic Principle = APPARENT DISORDER
とされている。
そしてOrderとDisorderは、どちらも人間が作った概念であり、その区別より一段深いものとして PURE CHAOS が置かれている。
ここでいうChaosを、物理学や情報理論におけるエントロピーと同一視する理由はない。
むしろ重要なのはGRIDである。
『Principia Discordia』では、人間が世界を見る仕組みを「窓」に喩えている。
その窓にはGRID――格子――が描かれている。
私たちは世界そのものを直接分類しているのではなく、このGRIDを通して世界を眺め、そこに関係を見つけ、「これは秩序だ」「これは無秩序だ」と分類している。
だから『Principia Discordia』は、
The ORDER is in the GRID.
と言う。
たとえば、散らかった机を考えてみよう。
ある人が見れば、
「なんて無秩序な机なんだ」
と思う。
しかし、その机の持ち主は、
「資料Aは左、今使っている本は中央、あとで読むものは右」
という自分なりの配置を理解しているかもしれない。
同じ机である。
変わったのは机ではなく、それを見るGRIDである。
別のGRIDを使えば、同じChaosの中に異なるOrderとDisorderが現れる。
『Principia Discordia』自身も、GRIDを変えれば同じChaosが違った形でordered/disorderedに見えると説明している。そして最後には、
Reality is the original Rorschach.
とまで言っている。
ここも非常によくある誤解である。
「Discordianismなのだから、Orderを否定してDisorderを礼賛する思想なのだろう」
と思われがちだ。
違う。
『Principia Discordia』は、「Orderは真実であり、Disorderは誤りである」と考えることを Aneristic Illusion と呼ぶ。
ところが逆に、
「Disorderこそ真実であり、Orderは誤りである」
と考えることも Eristic Illusion として退けている。
ここが面白いところだ。
秩序を絶対視するのも罠。
無秩序を絶対視するのも罠。
どちらもGRIDを通して作られた区分だからである。
したがって、ディスコーディアニズムを単純な「混乱礼賛思想」として批判すると、最初から標的を取り違えることになる。
さらに、ディスコーディアニズムを「2000年代初頭のインターネット掲示板文化を継承したもの」とする趣旨の説明もあった。
これは思想以前に年代が合わない。
DiscordianismはGreg HillとKerry Thornleyによって始められ、『Principia Discordia』は1960年代には成立している。
2000年代のインターネット掲示板文化より何十年も前である。
したがって、後世のネット文化との類似性を論じることはできても、
「Discordianismが2000年代のネット掲示板文化を継承した」
という時間方向にはならない。
未来の文化を過去の思想が継承することはできない。
そして今回の批判で、ディスコーディアンとして一番面白かったのはここだった。
批判文では、
「高度な知的秩序」
「不要なノイズ」
「フィルタリング」
「我々の支配する現実」
といった表現が使われ、最終的にはDiscordianismをノイズとして排除し、その痕跡を消し去るという趣旨の結論に至っていた。
ここまで来ると、『Principia Discordia』を読んだ人なら別のものを思い出すだろう。
Greyfaceである。
Greyfaceの問題は、単に「真面目な人」であることではない。
Orderを善とし、Disorderを悪とし、自分が作ったOrderをRealityそのものだと思い込み、それを他者にも押しつける。
それこそがGreyfaceの呪いである。
だから、Discordianismを「高度な秩序」の側から「不要なノイズ」として排除しようとする文章を読んだとき、私は怒るより先に笑ってしまった。
ディスコーディアニズムを批判する文章そのものが、『Principia Discordia』を解説するための教材のようになっていたからである。
もちろん、『Principia Discordia』を読んだからといって、Discordianismに賛成する必要はない。
嫌いでもいい。
くだらないと思ってもいい。
「Hail Eris!」と言いたくなければ、言わなければいい。
しかし批判するのであれば、少なくとも批判対象が実際に何を言っているのかを確認する必要がある。
Chaosをエントロピーの話に置き換え、Order/DisorderとPure Chaosの区別を無視し、GRIDを飛ばし、さらに1960年代の思想を2000年代のネット文化の継承物として批判してしまえば、それはDiscordianismへの批判というより、自分で作ったDiscordianism像への批判になってしまう。
そして、ここで最初の話に戻る。
あなたが世界そのものだと思っているものは、本当に世界そのものなのか。
それとも――
あなたのGRIDを通して見た世界なのか。
Hail Eris!